日本遺産と聖徳太子のまち・太子町

上ノ太子駅から「竹内街道」を歩く
日本最古の国道、「竹内街道(たけのうちかいどう)」。
大阪・堺市から奈良・葛城市を結ぶ全長26kmの日本遺産の街道が通るまち。
聖徳太子の墓所とされる叡福寺(えいふくじ)、通称「上之太子」がある
大阪府南河内郡太子町。
「大阪」と耳にして思い浮かぶのは、キタやミナミの繁華街。
“町”というより“街”の印象がつよい、言わずと知れた大都会。
そんな大阪にも恵まれた自然に溢れた開放的な風土の町がある。
大阪の南の拠点・天王寺から徒歩で大阪阿部野橋駅へ向かい、近鉄電車に乗り換え、電車に揺られることおよそ30分。
上ノ太子駅に着く。
駅を出ると、大阪とは思えないほどの自然と、何とものんびりとした空気が流れる。
早速目に入るのは、山の斜面に広がる“ブドウ畑”と“みかん狩り”の文字。
「知らなかった大阪を知れそうだ。」
高い建物のない、程よい距離感の山に囲まれた竹内街道を南東へ足を進める。
新鮮な空気の中、写真を取りながら目的地を目指すこと10分。

街道沿いにも自然があふれる
太子町春日に到着。
今回現地をご案内いただきながらお話を伺ったのは、太子町春日の松美農園・松井登志文さん。
松井さんの松美農園は、お父様の代から続く、主にブドウの中でもデラウェアとミカンを生産する個人農家さん。
元ホテルマンという経歴をお持ちの松井さんは、13年前に家業の農家を継ぐために、太子町の実家に戻る。
松美農園の長年のノウハウを積み上げてこられたお父様は、松井さんが戻られて一年後にご他界。
最初は、手探り・見様見真似で農業に向き合ってきた。
それでも、「松井さんとこの息子さんやんな。」周りの声と協力をえて
「“まちのつながり”に助けられながら、続けてこれた。」と話す。
松美農園のブドウ畑の広さは、三反(およそ100坪)。
「そんなに広いほうじゃないよ。」と笑顔で話す松井さんだが、
基本的には、栽培・収穫・出荷まですべて一人で行う。
一連の仕事の流れを伺うが、もちろんそこには聞くだけではわからない苦労がある。
「生産者として、とにかく良いものを作りたい。」
その言葉が、苦労やしんどさを感じさせない伝え方に変える。
実は、松井さんとは20年ほど前からのお付き合い。
大阪梅田のとあるホテルでご一緒させていただき、互いにその仕事を離れ、それ以来の久々の再会。
昔話に交えながら、「自分自身が携わって、作ってお客様の前に出す」ということを、ホテルマンの頃から大切にしているという言葉が印象的。
どの仕事にも共通する“お客様目線”を大切にする松井さんが作るブドウを早く食べたいと感じずにはいられなくなる。
11月のこの時期は、ブドウは旬を終え、来年に向けた新しい芽を出し、冬を越え春に向けた準備を始める。
水捌けの良いところを好むブドウ畑は、山の斜面に作られることが多い。

ひと仕事終えたぶどう畑
今年もひと仕事を終えた畑の斜面にしゃがみ込み、ブドウの木を眺めながら“ブドウの授業”を受ける。
「巨峰やシャインマスカットなどの大きな実のブドウは、房から実を摘む作業があること」や
「“棚”の高さは、一番最初に畑を作った人の背丈に合わせてある」
「ビニールをかぶせた畑とそうでない畑の違い」
「新芽の残し方」などなど。
果樹づくりは実に奥が深い。

来春に向けた新芽
年一回の収穫のものが多い露地栽培の果物。
「とは言っても、まだ10数回しか作ってないねんけどな。」と笑顔で語る松井さん。
年数にすれば10数年。しかし回数にすれば10数回。
作っている人だからこそ置き換えられる感覚値。
回数と年数には置き換えられない、作り手の楽しみや苦労が詰まった言葉。
農家さんに手間をかけてもらっているからこそ、美味しいものが我々のもとに届く。
感謝しながら味わうべきだと改めて感じる。
そして何より、ものづくりの中でも、“生きたものをつくるしごと”の大切なところに触れる。
素晴らしい仕事。ではおさめられない10数年の歴史が、1,400年の歴史のまち「太子町」にはありました。
編集部より追伸)
ぶどうの収穫を終えた時期とはいえ、貴重な時間を割いていただき、取材やご案内にご対応いただきました。
松美農園・松井登志文さん、上の太子観光みかん園ならびに太子町のまちの皆さま、本当にありがとうございました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。
お言葉に甘えて、ぶどうの房がなる5月ごろにまた伺って、次回は“太子町のぶどう”をご紹介したいと思います。
(2019/11/7 取材:西谷良造)
参照URL
・松井さんと行った「上の太子観光みかん園」のご紹介記事はコチラ
・1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」(日本遺産ポータルサイト)